桃色の憂鬱

文を書く練習

beyond the words

 ツイートとブログの狭間。無粋だから特にシェアもしない。

🐤何かを得る為に何かを犠牲にしなければいけないと思い込むあまり、何かを犠牲にしたから欲しいものを得られる、という誤った論理に飛びつき、犠牲にした価値観は「幻想」で、その次に採用した価値観を「現実」と名付ける言葉遊びで不断に現在を損なっていくから、いつかその「幻想」とやらに復讐される。

🐤論理の正しさなんて誰も気にしてなくて保守的な権威性ばかりがこびりつき、実際にはなにひとつ自由に決められることなんてないのに、見せかけの自由のせいで責任だけは負わされる、浮世は今日も最悪。

🐤とある物事は一行の記述に還元できない。一行で完全に記述できるのだとしたら、その一行の表現が、物事それ自体である事になってしまうからだ。あらゆるものが、表現の形を借りる限り、常に間違い続けている。恍惚とする距離があり、その距離が描く輪郭こそが愛を象るように思う。

🐤素晴らしいもの、悲しいもの、喜ばしいもの、嫉妬に狂うような恋心、体の奥の硬い芯を捻るような苦しみ、緩やかなやさしさ、儚げな関係性、残像みたいな感情と、クソと水の詰まった皮袋である私たち人間同士が、罵り合い、後に愛し合い、最後にお互いの失望で、穏やかな無関心で、全てを埋め立ててゆく。

🐤インスタに楽しげなストーリーズをシェアしてる人はわりあい多いもんだけど(自分もたまにやるし)、「楽しさ」って感情はそもそもシェアできるんでしょうか。できないんじゃないか。ていうかインターネット空間で「シェアする」って言うときに、我々は「情報」以外の何かをシェアできるのか?オフラインじゃないと結局は時間も空間もシェアできないわけだし。変な言い方だけど、オンラインのシェアによって、オフラインのシェアのための種を蒔いてる、のか。

🐤コロナ以前の「身体を使った」就活をして、いまの会社にいるわけだけど、仮にZoomの就活だったらたぶんもっと全然失敗してると思う。その場にいることによる謎の説得力、みたいなもので生きてきた自覚があるから。だから学生時代、新聞社とかライターのバイトでインタビューするとかってのは本当よかった。と、こう、色んな意味で自分の過去をどんなふうに束ねられるか、というフェーズにいるの気がする、多分。

🐤なにごとも熱しやすく冷めやすい自分を顧みながら、とにかく、飽きないように飽きないようにと願い続ける。欲望をコントロールするのはむずかしい。願うだけじゃなくて、部屋でひとり呟いたりもしてるんですよ。それだって所詮は言葉なわけだけど。何に対して「飽きないように」かって、そりゃ今愛しているすべてのことに。