桃色の憂鬱

文を書く練習

銀河鉄道の朝

 

初めて新幹線に乗った日のことを今でも鮮明に覚えている。5歳のぼくにとって新幹線は「夢の超特急」で、本当にどこまでも行けるんだと思っていた。昔JRに勤めていた祖父が記念品をくれて、それからしばらくは新幹線の運転手がぼくの夢だった。

 

誰だって、大きな声で夢について話せた時期があったはずだ。それは、野球選手だったかもしれないし、ある人にとってはアイドルだろうし、ケーキ屋さんだったなんてこともあるかもしれない。ぼく達はまだ子供で、堂々とした夢を見て、そうやって好きなことだけをして生きていけると思っていた。

 

 

現実を知ったのはいつからだろう。

 

 

線路はどこまでも真っ直ぐに続くものではなかった。それは単なる幻想で、現実には容易く走れる線路なんてほとんどなかった。世界はどこまでも理不尽で、ぼく達はそんな世界に背を向けるようにして、夢の切符を破いた。どこかに捨ててきた。

 

生きること、ただそれだけのことが難しい。

他の人が簡単にできることが自分にはできないかった。

 

始発駅も終着駅も、人それぞれ違う。友人とボックス席で話し込む乗客もいれば、ただ一人でひたすら立ち続けている人もいる。電車の速度だけが平等だ。

 

列車は定刻通り駅に着く。扉が開き、閉まる。そしてまた動き出す。単調な繰り返しだと思う。その単調な繰り返しさえあの頃は楽しめたというのに。

 

モノトーンのリズムに揺られながら、ぼく達は本当の幸せの意味を探そうと躍起になっている。

 

同じ毎日の繰り返しの中に、本当の自分を見つけようとしている。何かを築こうとして必死に這いつくばっている。

 

でも、幸せなんて築くものじゃなく、気付くものだ。どれだけ単調な繰り返しだとしても、ただ立って終着駅までじっと待っているだけだとしても、電車は前は前へと進んでいるのだから。時が滞りなく前に進むのと同じように。

 

 

***

 

小学生の頃、初めて『銀河鉄道の夜』を読んで、形はどうあれ近しい人が自分のそばから離れるとき、その人は銀河鉄道に乗るんだと思っていた。小学生の頃にちょっと気になっていた女の子が親の仕事の都合で外国に引っ越したときも。1年前に祖父が他界したときも。そして彼女がぼくに別れを告げて離れるその日も。みんな銀河鉄道に乗って、遠くへ行くんだと思う。それぞれの切符を握り締めて。

 

「何が幸せか分からないです。本当にどんな辛いことでも、それが正しい道を進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんな本当の幸福に近づく一足ずつですから。」

宮沢賢治-『銀河鉄道の夜

 

銀河鉄道の夜』の本質とは「本当の幸せは何たるか。」だと思う。一体、この世界で何が幸せなのか。本当にどんな辛いことがあっても、それが確かに正しいことなのだとしたら、それは実は幸福への切符を握っていることになるんだ、と宮沢賢治は説く。

 

それはもしかしたら子供の頃に思い描いたような夢の切符ではないかもしれないし、遠回りの線路かもしれないけど、それでも確かに幸せへの切符なのだろう。

 

現実の鉄道は、夢の鉄道よりも厳しい勾配を駆け抜けて行くし、終わりの見えない暗いトンネルの中を駆け抜けることもある。でも、その全てが車窓を豊かにしているのだろう。

 

「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中ではなしに本当の世界の火や激しい波の中を大股にまっすぐ歩いて行かなければならない。天の川の中でたった一つの本当のその切符を決してお前はなくしてはいけない。」

 

12月の上旬、クリスマスで色めきだっている最中、ぼくは浮かれた街で肩を落としている。朝の東京は一段と冷え込んでいる。思い返せば、これまでの人生捨ててきたものばかりだった。身勝手故に失ってしまったものはどれだけ願ってももう取り戻せない。今の自分にとって確かなものは、この手をすり抜けていったもの達への後悔と罪悪感だ。

 

でも、雲の切れ間から僅かながら陽の光が差している。たしかにぼくは夢の切符はとうの昔に捨ててしまったし、幸福への切符ももう本当に情けないくらいボロボロだけど、だからこそ、ぼくは幸福とは何たるかを知ることができた。全然綺麗なものじゃないけど、まだ確かにこの右手に幸福への切符は握っている。自分の弱さと罪に向き合うことを忘れなければ、どんなにぐしゃぐしゃでも無くすことはないはずだ。それでいい。

 

後悔や郷愁は腐るほどある。当たり前のことを当たり前に理解し、普通にしていればきっとずっと幸せだったはずだ。かけがえのない幸運をこの手に握っていた。そんな幸運を自らの手で破り捨てた今、かつて思い描いたものより全然酷い状況にあるけど、だからこそ気づけたこともある。前よりも人の優しさや、当たり前の日常の尊さ、本当に大切なものが何かを知っている。

 

なぜ今更、と思う。ずっとずっとサインを出し続けてくれていた君を無視し続けた一日一日の積み重ねが今だというのに。

 

果たして自分の大切な人を心底傷つけてようやく気づくことだったのかとも思う。今ぐらいの想いと熱量で君との生活を大切にしたかったと思う。でも、車窓に映る冴えないぼくはその全てをできなかった。あまりに幼すぎた。全ては必然だ。酷く傷つけた君に対して本当に申し訳ないと思う。もっと早く弱さを自覚し、君に向き合っていたらと思う。もっと君との日々を大切にすべきだった。もっと君の話をよく聞いて、君の感情に共感したかった。君に「可愛い」「好き」と分かる形で伝えるべきだった。本当に申し訳ない。

 

きっとこれから先辛いことばかりだろう。当たり前のように隣にいた君はもういないし、こんなことは考えたくないけど、もう二度と君の側にはいられないのかもしれない。でも、今を見つめてきちんと自分の罪と向き合った先で、また面と向かって君と向き合えるんだろう。形はどうあれ、君との新たな関係性はその先にあるんだろうと思う。こんな状況にあってそんな風に思わせてくれる君の人柄、優しさ、その全てに今は本当に感謝している。

 

だから、どんなに辛いことであっても、これからぼくが直面する経験と感情は全て幸福への途中駅なんだ。たとえそれが今のぼくが望む形ではないとしても受け入れる覚悟を持とう。

 

何があっても今列車から降りてはいけない。苦痛から逃れようとしてはいけない。劇的な変化に、希望的な観測に、「待つ」と言ってくれた君の優しさに、縋ってはいけない。甘えてはいけない。

 

ひたすら切符を握りしめて乗り続けるんだ。今日の自分の心持ちと行動だけが、明日のぼく達を保証しているのだと、自覚して、忘れずにひたむきに生きていこう。

 

そしたらきっとサザンクロスで、また君に会うことができるんだろう。朝日の昇る場所、サザンクロスで。

 

 

何となく、長い汽笛が聞こえた気がした。

 

 

さよなら。またいつか。