桃色の憂鬱

文を書く練習

映画『Joker』の感想を本気で書いた。

 一応ネタバレ注意です。今から観る人がいるか怪しいですが、もし観るのであれば1人で観た方がいいです。カップルとか好きな人と観ると、空気がヒエヒエになって、この後飯行く?みたいな雰囲気にならないです。 

 私はバットマンシリーズのファン(にわか)ということもあって色々なジョーカーを知っているつもり(にわか)なので、それらとの比較しつつ感じたことを書いていこうと思います。(前置きが長すぎる)

 

 

はじめに

 まあ、本題に入りますか。予告を見たときの第一印象は社会からは浮いているけれど、なんだかんだ家族や恋人の愛を感じながら生活していて、何かを機にそれを失って、失意の中で社会に復讐し始める。悪のカリスマで、ダークヒーロー。そんな感じのダークファンタジーだと思っていました。

 


映画「ジョーカー (原題)」US版予告

 

 ですが、実情は全然違います。ダークファンタジーというより社会風刺作品に近い。「面白い」っていうのとはなんか違う。登場人物もホアキン・フェニックス演じるジョーカーって全然バットマンぽくないし、これまで描かれてきたものと全然違う。というかジョーカーの名を冠してるけど、ジョーカーっぽくないみたいなそんな感じ。

 まずそもそもジョーカーというのはバットマンシリーズに出てくるヴィラン(悪役)です。めっちゃ人気で有名だから、派生作品がじゃんじゃか作られてるって感じのキャラクターです。

 で、このヴィランっていうのは大体超能力を持っていて、それを利用して悪さをしている奴らのことで最終的にヒーローにやられるんですけど、ジョーカーは少し特殊で、超能力は何も持っていないんですよ。その代わりに並外れた知能と狂気を持っている。何も力はないのに、それらを利用して、バットマンを追い詰めていくっていう構図が主流。というかこの作品以外全部そうなんですね。

 だから、ジョーカーは悪のカリスマとして、取り上げられ続けてきたわけなんですが、この作品におけるジョーカーって全然違う。

 まず、発達障害の精神異常者だし、やっている犯罪も自分の手に収まるレベルで完結する小さなものなんですよ。そもそも舞台となってるゴッサムシティも本当はもっと治安が悪い設定なんだけど、(マフィアの台頭や権力の腐敗が横行してる)この作品では、ちょっと悪い部分をスケールしたアメリカって感じですし。

  だから先ほど述べたように、社会風刺のクライムサスペンスって色合いが濃いように感じました。

  「社会から抑圧を受けてる弱者は全てジョーカーとなり得る」というテーマを描きたかったのかな。だから、より観客の社会の実像に寄せた設定やストーリーにしたのかなって感じです。

 あ、ストーリーについてですが、ホアキン・フェニックス演じるコメディアンを目指している男アーサー(ジョーカー)が中心でその他は脇役。

 また、完全にアーサーの主観で話が展開されており、アーサーは妄想癖をもつ男性なので、現実と妄想の境がところどころ分からない作品です。多分観客の想像に委ねているんでしょう。

  また、シナリオと呼べるほどの論理構造があるわけでもないため、雰囲気映画の境地といったような作品ですが、『Joker』が凄いのはなんといってもその雰囲気の圧が強すぎる。

  アメリカで公開に際して、警察や軍隊が厳戒態勢を敷いたり、子供に見せないよう注意喚起したりといったことが行われていた理由が見れば見るほど理解できる作品でした。

 確かに「学校だるいな〜ちょっと映画見るか〜」くらいのノリで映画館に入った中高生が帰り道で何か犯罪をやらかしかねないくらいの重さがありました。胸にくるというか。うまく言語化できてなくて申し訳ないです。ここまでつらつらと書きましたが、以上を理由に僕はこの作品を社会風刺作品と捉えていますし、その体で話を進めていきたいと思います。

 

ジョーカー像(従来との類似点と相違点)

 早速、主人公のジョーカーに焦点を当てていきます。冒頭でも述べている通り、ジョーカーを題材とした派生作品がいくつかあり、設定に整合性がなくて、結構曖昧だったりするので、なかなか定義するのは難しかったりします。

  例えば、ダークナイト版ジョーカーでは、過去や経歴など全て言うことがでたらめで、謎に包まれている悪のカリスマ、として描かれます。

  ただその一方でコミック版では、売れないコメディアンだった男が犯罪を目論むもバットマンに阻止され、逃げてるうちに薬品タンクに浸かってしまい人生に絶望した先に、「俺の人生はジョークだな」と言ってジョーカーになる、と過去が描かれたりもしている。

  このように設定は違う中でも、派生作品を通して、一貫した主張があって、それは「俺の人生や存在はジョークだ」ということと、「この社会の方が俺よりよっぽど狂ってる」ということです。

 ダークナイトではこれが転じて、「皆猫被ってるけど、本質は俺と同じだ」っていうのがテーマになっていて、本作では「弱者に思いやりのない社会は俺より狂ってる」というのがテーマになっています。

 この点は結構似てる。 そう考えていくと、ジョーカーが持つ主張自体は、あまり変わりはないんですよ。ただ、今作で決定的に違うのはその描かれ方。それが冒頭で書いた違和感の正体であり、僕が「ジョーカーっぽくない」と称した理由なのですが、派生作品を含めたあらゆるものにおいて、従来はジョーカーをシンボルとして描いているのに対し、今作はジョーカーをメタファー(比喩表現)として描いているんですね。悪のシンボルではなく、弱者のメタファーなんです。

 いきなりやれシンボルだ、やれメタファーだと言われても意味が分からないと思うんで、次項で詳しく書いていきます。

 

メタファーとしてのジョーカー

誰とも会話をしない男-アーサー-

 冒頭で、アーサーの主観で物語が描かれていると書きました。つまり、この作品はアーサーそのものです。作中でアーサーは誰とも会話をしていない。厳密にいうとしているんですが、誰にも相手にされていないんですよね。

 話し相手として描かれる精神科の職員も、その実、アーサーの話をまともに聞いていないし、母親も妄想癖があるため、話が通じていない。また、ガールフレンドも彼の作り出した虚構であり、現実世界での関係性は一切存在しない。

 アーサーは徹底的に社会から疎外され、孤立した存在として描かれているんですよ。そして、作中に似たような人たちがいるんですよね。そう、それこそがピエロマスクを被った群衆なんです。

 その類似性を示している象徴的なシーンとして、地下鉄内にピエロマスクの人々が群がっている場面があるのですが、その中で彼らは誰1人として会話をしていないんです。彼らは個人の集合体でしかなく、集団ではない。そこに社会はないから、彼らは会話をすることがない。

 彼らはアーサーと同じなんですよね。社会から孤立し、社会と関係を持てなくなった人々。現実世界で即していうとすれば、例えば修学旅行の班決めとかに近いのかなって感じです。クラスに適応できている人たちの班はコミュニティと言えますが、クラスから浮いてる人たちの班ってコミュニティとはちょっと違いますよね。連帯感がないっていうのかな。そんな感じです。

  まあ、上記のようにピエロマスクの間にコミュニティが存在しないわけですから、当然アーサー(ジョーカー)はシンボルとはなり得ない。

 では何か?ただ弱者個人にフォーカスしたメタファーというわけです。

 

仮面を被っているだけ

 時系列が少し前後しますがジョーカーが最初の殺人を犯し、ニュースや新聞で取り上げられて、ピエロマスクの群衆が現れ活動を始めます。

  これを知ったアーサーが「皆が存在に気づき始めた」というシーンがあります。この発言を「社会が俺に気づいた、爪痕を残してやったんだ」という意味で彼は発したのでしょうが、作品の持つ意味は少し違うと捉えていて、金持ちやメディアが存在しないものとして扱ってきた、明確に迫害されてるわけじゃないけど生きづらさを感じている弱者達が暴動などの事件によって顕在化している。という含意があるように感じました。

  現実で言えば、911のテロやイスラム国のテロなども政治的あるいは宗教的な思想犯罪に見せかけて、紐解いてみるとその内実は、貧困や差別によって生きづらさを感じている人々がその先に起こした事件でしかなかったりします。

  このように特定の集団を名乗り、特定の立場を代表するかのように事件を起こすけど、本質は個人的な問題にある。

  これは現代の社会問題の根底にあるものではないかと思います。また、ジョーカーにおけるピエロマスクの群衆も同様です。前述の通り彼らは個の集合体であるが、集団ではありません。

  表面的には「ジョーカーに共鳴した集団」が起こした暴動(現実で言うイスラム原理派組織に近い)という体ですが、暴動の背景にある生きづらさの理由は人によって違います。それらは本質的には個人の問題です。ジョーカーも彼自身の問題によって行動していますし、ピエロマスクの群衆も同様です。

 その意味でもジョーカーはシンボルではなく、弱者個人のメタファーなのではないかと感じました。

 で、メタファーであるのと同時に社会は「◯◯支持者は危険だ」という風潮を作るけど、「〇〇支持者」というのはピエロの仮面でしかなくて、彼らは社会に生きづらさを感じているだけのただの人間だっていう本質を見てくれよ。というこの映画からのメッセージも感じました。

 以上のように、本作のジョーカーって一見カリスマ的シンボルで、皆がジョーカーを崇拝しているように見えるけど、実際はただ自分の不満を社会にぶつけたいだけの弱者が「被っている仮面のこと」でしかないんですよね。

 この辺りの捉え方の違いが、僕がこれをバットマン作品と受け止められない理由なのかなあという感じがしています。

 

【補足】それでも消えない断絶

 この「皆が存在に気づいた」にはもうひとつ興味深い点があって、それが題目の通り、断絶を象徴的に示した点なんです。それはつまり、皆とそうでないものとの断絶です。

 では、皆とは誰で、そうでないものは誰でしょうか。そもそも、存在を気づかせたものとはなんでしょうか。

 後の問いから考えてみましょう。簡単ですよね。存在を気づかせたのは紛れもないジョーカーです。では、実際にジョーカーによって気づき、行動を起こした人々は誰だったでしょうか?そう、それは他ならぬ弱者自身ですよね。

 金持ちやメディアによって存在しない者として扱われ、生きづらさを感じていたこと。そして、その問題の原因は社会にあるのだということ。だから、社会に攻撃を仕掛けても良いのだということ。

  これらを弱者自身が気づいたわけです。つまり、皆とは他ならぬ弱者のことを指しており、逆説的に「そうでないもの」は富裕層を指しています。

  作中でこれは実際に描かれています。街の様子は酷く、外では暴動が絶えないにも関わらず、富裕層は劇場に集まり、チャップリンのモダンタイムスを観ながら談笑している。劇場の外の様子には一切気にも留めない。

 富裕層の社会の中に弱者は組み込まれていないんです。彼らからしたら存在しないものとして扱ったというより、彼らの中では本当に存在していなかった。ジョーカーが現れ、暴動が起きても結局存在しないんです。彼らは気づいてもらえたと思い込んでるに過ぎない。なんとも皮肉な哀しい話ですね。

 現実、というか私の話に置き換えてみると、本当にその通りで、障害者とか不登校とかワーキングプアとか社会問題としては認知していながらも、日常生活を送っていて一切気を留めることがない。即ち、僕の社会の中でそれらは存在しないも同然なんですね。結構落ち込みますけど、事実なんですよ。

 あ、少し話変わりますけど、これ書きながら伊藤計劃の『虐殺器官』を思い出しました。

人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。

伊藤計劃(2010)『虐殺器官』p.371

 要はこういうことです。 どんな事件が起きてもなかなか断絶は埋まらない。かなり鋭い現代社会への風刺だと感じました。もしよかったら『虐殺器官』も読んでみてください…面白いんで…

 

本作における「笑い」

 話は変わりますが、本作では「笑い」が重要な意味を持っています。

 

アーサーの「笑い」

 実際、アーサーは作中でよく笑います。また、面白いかどうかは置いといてコメディアンを目指しています。作中のアーサーの笑いは3種類に分けられます。

 

  1. 病気としての発作的な笑い
  2. 周りに合わせた笑い
  3. 周りとはズレた感性から来る本当の笑い

 

 1に関しては何も思い浮かばないんで放置します。

 2の周りが笑っているのに合わせる笑い。これは予告編でも使われた小人症の人をネタにして皆が笑っているのを見て自分も笑うんだけど廊下で一人になると途端に真顔になる

 こういう周りに合わせて笑うというのはジョーカーだけでなく、弱い立場の人間なら誰しもがやっていることです。「下ネタや人をバカにするのはウケる」とノートにメモしていたり、本人はそういうものを面白くないと感じているわけですね。

  3の周りとはズレた笑いの感性からくる本当の笑い。アーサーは面白いと思って笑っても、人前では皆に合わせようとして途中でやめてしまいます。

 

「笑い」の社会的強制

 トークショーみたいなところで、妻と大学教授と学生というプレイをするみたいな下ネタが披露されるシーンがありますが、おそらくアーサーの知能や経済力では大学に通えていない。だから彼自身の感性とは関係のない部分で彼は「笑いどころ」を理解することができません。

  また、アーサーが侵入した劇場で、金持ちや政治家といったそれなりの社会的地位のある人達がチャップリンの映画モダン・タイムスを見て笑っています。モダンタイムスは権力者や金持ち、社会に振り回された貧乏人があたふたするのをコミカルに描いた作品です。

  客観的に見ると悲劇ですが、それがギャグとして成立していてコメディになっています。本作では「それを見て笑う金持ち達」という劇中劇の構図になっています。

  このように、ある一定の社会的地位がないと「笑いどころ」すらわかりません。社会にはそういう笑いに溢れていて、披露する側は観客がその前提を知っていて当然、これを知らない奴は存在しないだろうと捉えています。

  そういった面白さを共有できない人間に対して社会は「強調しろ」「普通でいろ」(笑え)とプレッシャーをかけます。 

 笑いにはある種そういう傲慢さがあるということをこの作品は暴いていきます。

  本来生理現象であり、自由であるはずの「笑う」という行為がこういう場で「笑うな」、こういう場で「笑え」と、いつの間にか社会に感情行動を支配され、それがアーサーの中では重圧になっています。

 キング・オブ・コメディのオマージュである部屋の中でネタを披露するシーン。それが面白いかどうか、笑えるかどうかは別としてアーサーの中では「ノックノックノック」と間が作られ一人芝居が始まります。そして、オチには自分を射殺して自分自身の存在がジョークでしたと「笑いどころ」が生まれます。

 

 しかし、準備をして望んだコメディ番組では「笑いどころ」を作る前にロバート・デ・ニーロツッコミを入れられて、無理やり「笑いどころ」を作られてしまいます。

 これは番組として、この時間間隔にこれだけの笑いがなくてはいけない。という社会の「笑いの強要」の象徴であり、ピエロの格好をするなであったり、デニーロの説教が始まったりするのが社会の「笑ってはいけないの強要」の象徴なのです。

 「自分らしく笑え」と社会の重圧そのものを射殺したアーサーはパトカーの中から社会が壊れていくのを見てやっと自分の意志で笑うことができました。

 「今まで自分の人生は悲劇だと思っていたが違った、これは喜劇(コメディ)だ」というセリフ。

 これはチャップリンの名言である

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くで見ると喜劇である

(Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.)

を意識したセリフだと思うんですけど、

 これは「自分の人生笑える」という自暴自棄のセリフにも聞こえますが、僕は自分の人生を「遠くで見ることにした」という真面目に生きるのをや~めた!っていう宣言だと思うんですね。

 そこからアーサーという個人の人生ではなく、ジョーカーとしての人生が始まるわけですが、これはそのまんま無敵の人の発想そのものなわけです。

 いま社会で生きづらさを感じている人は自分の人生を悲劇(近くで)捉えているわけですけど、あるきっかけでそれがプッツンして喜劇(他人事)のように捉えて生きることをジョークのように考え始める可能性が誰しもにあるんじゃないかという警鐘を鳴らしてると思うんですね。

 

「笑い」とは何か? -攻撃性の証明-

 冒頭でも述べた通り、この映画では「笑い」が大きな意味を持っています。そこで今一度笑いについて考えてみました。

  結論から言うと、私は笑いを攻撃性の発現の一種と捉えています。皆さんはどういうときに笑いますか?どういうときに面白かったと感じますか?

 まあ色々あると思いますが、憎らしい人、嫌いな人、変な人が何かガヤを入れられたり、やっつけられてるときに笑いませんか?

 例えば、漫才やコントっていうのもそうですよね。ボケとツッコミという構造が主流ですが、あれこそがまさしくそうで、ボケとは一方的に変な人を生み出していて、それを一般人(社会的)目線のツッコミが指摘する。そこに笑いが生まれていますよね。

 その意味で、「笑い」とは攻撃性の発現なんですね。最近も芸人さんが差別だなんだと炎上しましたが、「笑い」とは基本的に差別であり、基本的にいじめなんですね。だからこそ面白いんです。その危険さが面白い。

 

「笑い」と「いじめ」の違いって何?

 笑いとはかなりいじめの要素を含んでいることがわかりました。でも、これらは全く異なりますよね。ではこの両者の間の違いってなんでしょうか。

 抽象的に言えば、主体と客体の間に仲の良い関係が成立しているか否かです。主体とは笑わせる人であり、客体とは笑う人を指しています。

 具体的に言います。例えば、「お前って本当にバカだなw」みたいなことを上司が部下に言ったらそれはパワハラになるけど、仲良い友人同士であれば、そこに笑いが成立するわけです。この構造を押さえて次の項を読んでください。

 

アーサーはコメディアンにはなれない

 ジョーカーの話に戻ります。冒頭にも述べましたが、主人公のアーサーは発達障害の精神異常者です。また、彼の主観で綴られている今作で会話相手がいないことから、仲の良い友人はおらず、関係性を誰からも求められていないことがわかります。社会からずっと孤立している人間ですよね。そんな彼を介して笑いは絶対に成立しません。

 なぜなら、社会からアーサーに何かを言ったら、それは「いじめ」になってしまいますし、アーサーから社会に何かを言っても、それは「気持ち悪い人がなんか変なこと言ってる」としかならないからです。

 コメディとは観客と演者の間にある種の社会的関係が存在して初めて成立します。噛み砕いて言うと、社会を構成している人同士が、互いを認知した上で、「笑い/笑われ」の営みを行ったときに初めてそれがエンターテイメントのコメディとして成立します。

 でも、肝心のアーサーは上述の通り、誰からも求められず、社会との関係性を持てない人間です。だから、彼の行うコメディチックの営みがエンターテイメントとして成立することはなく、寧ろ「変な人」として嘲笑され、不気味がられ、しまいには「普通にしてろ」「黙ってろ」とまで言われてしまうわけです。

 

ポリコレへのアンチテーゼ

 近年「誰かの立場で考えたらそれは不謹慎だよね」というポリコレ*1リベラリズムの思想が「笑い」や作品を作りづらくなっている現代社会の風潮に中指を突き立てるようなメッセージ性がこの作品には込められている気がします。

 現代社会ではLGBTや障害者のような社会的マイノリティを受け入れろ。という主張がある種の力を持っていて、それが作品そのもののシナリオやキャスティングを変えてしまったりと、監督目線ではそういう生きづらさを感じているのではないでしょうか。

 なので監督のトッド・フィリップスは、小人症の人を使ってドアに手が届かないネタをやったり「アーサーのような人間でも仲間に入れてやれるのか?」とポリコレ支持層に石を投げつけます。

 アーサーというキャラクターは、終盤の猟奇性を抜きにしても映画の序盤からすでに「可哀想だとは思うけど、自分が助けるかといえば…」という微妙な人感をムンムンに醸し出しています。

 クラスにいる障害者が困ってたら助けるけど、ずっと机でブツブツ独り言言ってなんか手遊びしてるみたいな同級生に手を差し伸べるかといえば…みたいな。

 重度の障害者だったり明確に国や社会の保証が充実した社会に認められた”社会的弱者”ではなく、言い方が悪いですけど、ギリギリ社会人やれるからこそ国や社会が保護するには至らない人たち。そういう人たちが現実でもテロリズムや事件を起こしたから(日本でも)「皆も存在に気づき始めた」そういう人。

 アーサーという人間は大して会話も成立していない近隣住民のシングルマザーを勝手に脳内で恋人にして、ストーキングして勝手に家に上がってくヤベー奴です。

 ようは社会的弱者で助けを求めているんだけど、一度手を差し伸べてしまえば異常に執着され、助ける側が一生疲弊し続ける。そういう人間として描いている。

 そういう意味では自己責任論者の人はこの作品を見て「このジョーカーには感情移入できない、感情的な精神病質者が社会に迷惑かけているだけで胸糞だった」という感想を抱いたのではないでしょうか。僕には「そういう風」に描いている側面もあるように見えました。

 ポリコレ層は多様性を受け入れることを訴えていますが、こういう受け入れるだけでもかなり疲弊するアーサーのような多様性を受け入れてみろよ。と挑発します。

 作中でも事件が起きているからピエロの格好をするな。であったりとか、メタ視点でいえば、アーサーがひたすらずっとタバコを吸っているのも「タバコ吸ってる人を映してはいけない」という表現規制に対してひたすら唾を吐きかけ続けていると。

 なのでこういうリベラリストやポリコレ支持層はこの映画に対して、かなり否定的な評価をかけると思うのですが、それこそが監督の狙いだと思うんですよ。

 この映画は、アーサーのような多様性を受け入れてみろよと喧嘩を売ると同時に、アーサーというキャラクターがある側面でポリコレ支持者的に描かれている。「社会は俺を受け入れろ、認めろ」と銃で人々を弾圧する様は、ポリコレのメタファーとも解釈できるわけです。

 ペンは銃よりも強しということで、言論(ペン)で自分たちの存在を無理やり受け入れさせてくるポリコレを揶揄するかのように、銃で俺たちの存在を受け入れさせようとするジョーカーと愉快な犯罪者たち。

 ポリコレやリベラルがジョーカーを叩くと、それが間接的に自分自身の言動を否定しているという滑稽な構図が浮き上がってくる。そういう「ジョーク」を監督は描きたかったのではないかと思うのは、少し深読みが過ぎるでしょうか。

 

"ただそこにいること"が認められない社会

 広告とか感想とか見ていると「社会に追い詰められた~」とか「銃を持つことで~」みたいな表現が多いですが、個人的には彼がジョーカーになった「理由」は少し違うと思っています。

 それを語る上で彼の妄想癖についての話題は避けられません。本作はアーサーの一人称視点の物語なのですが中盤に明らかにあるシーンが妄想だったとわかる描写があり、それ以降作品を構成するシーンすべてが信頼できない語り手として嘘か本当かわからない状態になっています。

 唯一、嘘が確定的なのはアーサー自身が「認められる」シーン。恋人(妄想)が自分の殺人を肯定したり、コメディ番組で観客席にいた自分がスポットライトにあたり母親を介護して暮らしていることを肯定されたり。周りが自分を肯定してくれるシーンは基本妄想です。なので最後に暴徒に担ぎ上げられるところも本当か怪しいです。撃った銃弾が7,8発だったり、ピエロの仮面かもしれないと報道されていたりということから、最初の射殺のシーンすら妄想という説もあります。

 それはさておき、彼の中には「社会に認められたい」という承認欲求があります。それと同時に「コメディアンになりたい」というこだわりもある。才能はないけど…

 父親はトーマス・ウェインなのか?それともただの妄想なのか?という議論があって、作中では精神病質者の妄言に見えますが、「笑顔が素敵だね T・W」と描かれた写真があることで真偽が不明になる。

 これについて僕的には虚言だと思っています。なぜなら、妄想だと明らかなデニーロが司会をやっているコメディ番組の観客席のシーンで、デニーロに呼ばれたアーサーが舞台に立ち「息子のように誇りに思う」みたいな感じのセリフを言われる所から、アーサーは「社会的地位のある父親がいれば、自分は社会に認められる」と考えているからです。

 つまりそれなりの立場であれば、彼にとって父親は誰でもいいわけです。アーサーは母親の言う通り「会社員」もギリギリやれる人間だったと思うんですよ。それでも、いわゆる普通の職につかずに、やりたいことをやって生きている。そういう自分を認めてもらいたいというのが彼の思想の根底にある。

 そして序盤では社会的にはフェアなやり方で(このフェアというのが社会の持つ欺瞞や奢りに溢れているんだけど)自分を社会に認めさせようとしている。具体的には、地道に小児科で営業したり、看板を持って宣伝したり、トークショーに出演したり。

 「ただそこにいること」さえ社会が認めていれば、アーサーはどんなにうまくいかなかったとしてもその枠の中で地道に頑張ることを諦めない。

 そういう人間だったのだけれど、ついに事務所をクビになることで「ただそこにいること」すら否定されてしまった。どれだけ結果が伴わなくても機会さえあれば彼は報われないまでも社会の一員として生きていけた。しかし社会は、「社会的にフェアなやり方で地道に頑張ること」さえ許してくれなかった。それこそが会社員3人を撃った引き金だと思うんですよ。

 「社会的にフェアなやり方で地道に頑張ること」を否定されたアーサーは、社会的地位のある人間が父親であることで「ただそこにいること」を認めてほしかった。そこでトーマスと接触するけどうまくいかなかった。(当然だけど)

 そのうち、カウンセリングの施設も政府の予算の都合上打ち切られ、母親も大して自分を愛していなかったことを知り、アーサーは「ただそこにいること」を認めてくれる何かがどんどん失われていく。そして偶然、デニーロの番組に呼ばれたアーサーは

  • ネタを披露して観客を沸かせ、コメディアンとして「社会的にフェアなやり方で」社会的に認められるチャンス
  • デニーロが息子のように自分のことを認めてくれ「ただそこにいること」が社会的に認められるチャンスを得たわけです。

 ですが、作中の通りそれは成功しなかった。挙げ句デニーロには「人殺しなんかではなく、社会的にフェアなやり方で地道に頑張れば良かったんですよ」と説教される。

 そしてジョーカーは「社会的にフェアなやり方で地道に頑張ることを否定したのはお前ら社会だろ」と銃を向ける。

 この映画のメッセージの本質はそこなんじゃないかと思います。やりたいことがあるけど、それは経済的に何も産まないし、マネタイズのセンスもない。そんなことをひたすらやっていると「真面目に働け」と社会に参加することを求められる。世の中にはそういう驕りに満ちていて、それが生きづらい人がいる。

 そういう人に対して支援も、手を差し伸べることも、話しかけてあげることも、そういった思いやりもいらないということがメッセージとして込められている。

 そんな人間が「ただそこにいること」。たったそれだけを認めてくれるだけでいい。殺されなかった小人症の人や、シングルマザーの人も、特にこれと言ってアーサーに何もしてないんですよ。

 シングルマザーの人は勝手に部屋に入ってきたアーサーに対して「部屋間違ってますよ」っていう相手が悪いやつだ、変な奴だっていう決めつけから入っていない普通の人間として接した。小人症の人も銃を持ってたアーサーになにかの間違いだと疑わなかった。

 「ただそこにいること」を当たり前のように認めてくれる人をアーサーは殺さなかった。そういう人が生きててくれないと、自分は社会とまた一歩遠のくと思っているから。「ただそこにいること」を認めてくれる人が一人でも多い社会であってほしいと思ってるからでしょう。

 だからこそ社会が壊れていてくれれば、壊れた自分がいてもそこにいることを誰も疑問視しない、そういう居心地の良さを感じて、彼は素で静かに笑うわけですね。

 このようなメッセージ性が潜在的「社会に何も貢献しないけど何も求めない、そんな僕がただ生きていることを認めてくれないか」と、社会が何かでいることを自分に強要してくることに疲れた人間の心にストンと入ってきて、ラストのアナーキーなシーンである種の爽快感を得るわけです。

 逆にその社会を作っている側にとってはすごく陰惨なダークな作品に見えると思います。

 この映画でそういうアナーキズムな思想を植え付けられた人が何かやらかすのかもしれないと警察が警戒していますが、たしかに僕も映画館を出た瞬間に過激なデモが起きてるようなそんなカオスな帰り道だったらいいなと思ったりしたけど。

 まとめると、アーサーのようなヤバイやつには何か特別な施しも称賛も肯定なんかいらなくて

 「ただそこにいる」

 それを認めてあげる思いやりがあればいいだけ。逆に今の社会はそれが欠けてるんじゃないか。そんなメッセージを映画を通して感じました。映画『Joker』の僕の解釈はこんな感じです。

 ということで世の中がカオスにならないためにも、まずは僕が働かずに引きこもることを社会は認めてみませんか?

*1:ポリティカル・コレクトネスの略。性別/人種/民族/宗教などに基づく差別や偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正な言葉や表現を使用することを指す。

恋の揮発性

最近グダグダとあれこれ書いてるけど、はてなブログ自体は2016年から始めていて、そう何が言いたいかっつーと、最近2年ぶりくらいに更新してんのよ。

 

2年ぶり。2年間何してたんだって言われるとまあずっと放置してただけなんだけど、忘れてたわけじゃないよ?普通に超覚えてた。まあいいや。

 

つーかさ、ちょっと待ってよ。とりあえず2018年の話していい?全然書いてなかったから。大丈夫。君の言いたいことはすげー分かる。もう2019年が終わるのに何言ってんの?って話でしょ。分かる。それ俺も超思ってる。なんならそれ最初に思ったの俺だから。みんななんで今更2018年の話読まなきゃいけないのって思うかもしれないけどさ。ちょっと我慢してよ。

 

いやね、分かんの。たとえばさ、ラグビーW杯良かったねー!みたいな話をこのタイミングでされても全然今更感あんのに、俺がしたい話って日大アメフト部の悪質タックルとか、タイの洞窟から少年が救出された話とかだからね。あの、みんな、記憶の片隅にくらい残ってます?

 

いやー、ビビってるね。俺が一番ビビってる。さっきも言ったけどブログのこと全然忘れてなんかないし、なんならいろんなこと考えて、ブログの下書き書いて更新して削除してみたいなの繰り返してる間に、日本ボクシング連盟の山根会長が解任になったり、日産のゴーンが逮捕されたり、そんな紆余曲折を経て、元号まで変わっちゃってた。俺まだ超平成に取り残されてる。

 

あるんだ。こんなのって。

 

ちょっとブログ更新してないと元号って変わんだね。あまりにびっくりしたから俺学会で発表しちゃったもん。更新してない間に元号が変わったのではなく、更新をやめたから元号が変わったんじゃないかって説。まあその学説は満場一致でたわごとに認定されたわけなんだけど。

 

とにかく俺が更新をしていなかった2年っていうのは、ひとつの学説が提唱され、否定されるくらいの長さなわけ。俺、何してたの? いや、もうね、マジでこの2年くらい、フレームレートが低過ぎる。約730日だよ。17520時間。その間に思い出せる出来事、5つくらい。

 

いまやiPhoneでも60fpsで動画撮影できるわけじゃん。1秒間に60コマもあんのに、俺の2年は5コマ。0.00000008fps。なにこれ?死んだ星?

 

でさ、せっかく更新したわけだしその5コマについて書いてみようと思うんだけど、まずひとつが就活ね、思い出したくもなければすでに少し書いた気がするからこれはいいや。次に留学ね、楽しかったけど、なんかこれっていう書くことはないからこれもいい。

 

3つ目はベトナムでビザが切れかけた話、死ぬかと思った。人生で唯一前科持ちかけた経験だからね。不法滞在危機。まあ、切れる当日に香港に行けたからなんとかなったんだけども。

 

4つ目は好きだった女にレズビアン告白されて失恋した話ね。まーかれこれ2年近く引きずったんだけど。多分ちょうど更新放置してた時期だな。でもこれもまあタイトル通り揮発性っつーの?気づいたらなんも思わなくなってたみたいな。でも、今思ったら俺2年近く片思いしてたんだなー。すげー色褪せてるけどがんばって思い出して書いてみるよ。多分俺がだいぶキモくなった原因がこれっつーか、酸いも甘いも俺に教えてくれた経験だったし。

 

片思いっていうとさー、みんな純度高めで、恋そのものが世界を彩ってくれる、的なそういうの思い浮かべると思うんだけど、まあ、俺も過去にはそんな机上の空論(ロマンティックセオリーオンザデスク)を語っていたんだけどさ、結論から言えばそんなこと全然ないんだよね。

 

いや、確かに序盤戦はそうなのよ。世界が輝いて見えてた感じがする。知らねーけど。でもなんつーか2年近くやってるともうなんか慣れてくるっていうの?ちょっと理科の話になるんだけど、明順応?知ってるかな?トンネルから出た直後のあれね。恋にも明順応ってあんのよ。

 

片思いってさ、ぶっちゃけ何もないじゃん。名前があって特別な日々、みたいな雰囲気醸し出してるけどその実態は無なのよ。これがたとえば付き合ってたりしたら、どっかに遊びに行ったり、ときには喧嘩したり何ヶ月だねーみたいなこと言って普段なら会わないような日にお互いの予定を合わせたり、そうやって[交際ステータス]限定のイベントがあるんだけど、片思いって全然そんなものがない。The 日常。

 

特に何かを積み上げるわけでもなく、好きな人との思い出や絆が深まるものでもなく、ステータス画面に表示される関係性はただの友人で、この期間に積み上げられんのは恋愛とは全然関係ねー友情ゲージ。でもさ好きな人との友情ゲージなんてすでにカンストしてるわけだから、言うなれば進化し損ねたレベル100のミズゴロウ連れて四天王を周回してるだけなのよ。あ、ポケモンの話ね。

 

経験値も増えないからべつに四天王を倒せた感動もないまま生き続けてくわけ。でも、絶対チャンピオンは倒せないんだよね。そういうの最初は悲しかったりすんだけど、だんだんチャンピオンを倒せないどころかチャンピオンの座を揺るがすことすらできない自分に慣れてって無限にFPP視点で恋し続けんのよ、片思いって。

 

ところで話は変わるけど、俺が理想とする男性像はミッキーマウスで、常になんか悩んだときとか、選択を迫られたときってミッキーマウスが選びそうなものが正解だと思って生きてきた。ミッキーなら多分手を繋ぎながら何も言わずにうなずいてパーティに誘うだろうし、トンチンカンに怒られても逆ギレなんかしないし、うじうじなんかしない。僕らのクラブのリーダーは長く付き合ったミニーともう何回かもわからないデートの日に、行くところがないからとラブホに直行なんかきっとしないし、そんなふうに考えて正しい方を選べたときは大体グッドエンディングが与えられてた。気がすんの。

 

でも、片思いってミッキーマウスメソッド(通称:MMM)が全然通用しないのね。だってミッキーは片思いなんてしないし、ランナーズハイのその先の感情の死を知ることなんて絶対ないからさ。たぶんミッキーってミニーが死んじゃったとしても、きっと想像すらできない魔法でミニーを生き返らせて必ず最後はハッピーエンドにしてしまうんだと思う。だから無理で、まあ端的に言うと詰んでたのね。

 

で、5つ目は本当最近、彼女ができたっつーこと。タイの少年達みたいにクソみたいな片思いの洞窟から俺を救い出してくれたひと。多分これからもわざわざ予定合わせて遊びに行ったり、他人同士だからたまには喧嘩したり、そういう紆余曲折があんだろうけど、でもその先にちゃんと思い出とか絆を深めていけんだと思う。なんかやっとそのステージに立てたっつーか。つーわけで、本当にありがとうってこととこれからもよろしくってことを2019年中に書いておきたかったわけ。本人に言えってね。恥ずかしくてできないから読みようがないここで書いてるわけだからさ、ま、それは勘弁してよ。

 

あ、もちろん更新も頑張ってくつもり。じゃ、みんなもう残り少ないけど体調に気をつけて良いお年を。

桃色の憂鬱

私ブスだからとか大声で言ってみんなの気をひこうとしたり、人前で泣いて努力を認めて欲しいと乞食をしたり、中央線のダイヤみたいに定期的に情緒が乱れたり、そういうのは思春期までだよと思う。

しかし、そういう人を前に悪意の交じる感情を持つのは僕だって泣きたいからだ。
飄々とした大人になりたいのに、たまにそういう行動をとってる人を憎らしいほど羨ましくなったとき、子供の頃に「お兄ちゃんだから我慢しなさい」と買ってもらえなかったおもちゃのことを思い出します。