桃色の憂鬱

文を書く練習

吉祥寺

 

「あの、よろしくおねがいします」

 小さくお辞儀をした彼女が少し緊張していたのを覚えている。大学の後輩で、誰かにくっついて、知らない人ばかりの僕らの飲み会にきてくれた子だった。ちょうど今くらいの花粉が飛び始めたころのことで、当時の僕も今みたいに鼻をずるずるさせていて、こんなにも鮮明に覚えているのはきっとそのせいなのだろう。

 2月の下旬、もうすぐ桜の季節だ、出会いの春、なんてかこつけて失恋したばかりで傷心中の僕のもとに知っている子と知らない子が10人くらい。特に何をするわけでもなく、ただいつもみたいに僕の家に集まって、みんな好き勝手していいからねーなんて仕切る人に、ここの家主は俺だからなんて言って笑って、そんな感じのまあなんの変哲もない日のことだった。

 花見行きたいなー、でもまだ全然咲いてないよな、なんてそんな話をひとりの友達と話しながらちょうど空になった缶ビールを潰して、何気なくスマホを取り出したときにベッドの上に座って飲んでいた別の女友達からいきなり話しかけられた。

 「それ、あんたのスマホ画面割れすぎだって。ちょっとやばくない?ちゃんと直しなよ」

 たしかに僕が持っていたスマホの画面はひどく割れていて、でも使えるからまあいっか、最新機種だから修理とか高そうだし。とか思いながらも、まあでも直すべきだよなってそんな気もしたことを覚えている。それまでそんなことは気にしてなかったけど、言われてみるとまあ、そうかな、みたいな。

「そうなんだけどさ。なんかまたすぐ割っちゃいそうだしさ」

 とりあえず冷蔵庫から新しい缶ビールをとるために立ち上がって、げっもうビールないじゃんとか言って、その辺にあったほろよいを手にとってぼんやりと飲んでいると、はじめに小さくお辞儀をした女の子がそそそっと僕のそばに来て、自分のスマホを見せながら、「私のも、も?かな?割れちゃってる疑いありです」と、元気出してねみたいな感じでにこっとするから、わざわざそんなこと言いに来てくれたの?ありがとうって俺も笑っちゃって、

そしたらその子が実はもう一つあるんですけど、

 「私、ビール苦手で、あの、なかなか減らないんで、そのほろよいと交換してください」と恥ずかしそうに言った。

 一通り笑い転げた後で、どうぞどうぞってお互いの缶を交換して、じゃあ改めて乾杯ねって缶がかちんと鳴ったとき、なぜだかわからないけど僕はその子のことが一発で好きになった。そんなふうな出会いの後で、僕はとても自然に急速にその子の行動や仕草に可愛らしさを感じていったし、彼女のほうもまるで僕になつくように連絡をよこすようになった。

 それから僕は彼女とたびたび出かけるようになって、そんなとき、僕はいつも彼女の右手側にいて、彼女は僕の左手側にいた。左利きの僕と、右利きの彼女とはそうすることで、強く固く結びつくように思っていた。少なくともその頃の僕はそうだと信じていたし、少しも疑うことはなかった。僕は何度も彼女の右手を握ったし、そのたび彼女はその手を握り返してくれた。僕はそれが嬉しくて彼女の顔を覗き込み、するとつられて彼女もつられてこっちを見る。幸せだった。付き合おうとかそんなことは口に出さず、代わりに僕は彼女に「ずっと一緒にいようね」と何度も言って、そのたびに彼女は不思議そうに、うん、と頷いた。

 前の彼女にこっぴどく振られて、恋愛とか付き合うとか信じられなくなっていた僕はこれ以上傷つきたくなかったから、本当は彼女の気持ちに気づいていたけれど、鈍感な振りをし続けて、目を背けて、ただただこのぬるま湯のような関係がもうちょっとだけ続くように、そうやって彼女に甘えながら、時間を引き延ばして引き伸ばして過ごしていた。

 僕と彼女は僕の小さな部屋にいるときも、いつも隣り合わせでベッドを背もたれにして座っていた。足を投げ出して、真ん中には灰皿があって、そしていつもおそろいのマルメンと淡いブルーのジッポ。そこが僕らの定位置だった。僕の左側に彼女、彼女の右側に僕。そうやっていると彼女の顔を直接見ないで済むし、彼女と僕のことを正面から考えることを先延ばしにしていられる気がした。

 彼女は何度か僕に手料理を振る舞ってくれた。パスタが好きな僕の要望に応えようと一生懸命食材を選び、そこにひとひねりの彼女らしさを織り交ぜて、僕が好きなにんにくの効いたスパゲッティを作ってくれた。彼女の手はそんなときいつもにんにくの匂いがして、彼女の髪は暖かな匂いがした。それは大人の女の香りとは違ったし、かと言って小さな女の子の匂いでもなかった。そうすると彼女は決まって「おひさまだよ。おひさま」なんて言って笑っていた。僕は彼女の髪の匂いも、にんにくの匂いがする少し湿った手も本当に大好きだった。

 大きな皿にパスタを盛り、テーブルの上においてくれる。僕が先に一口ほおばり、彼女はキッチンで「どう?」と言う。僕は彼女のそばまで行って、そして耳元で、やや元気よく、すっごくおいしい、と言った。

 「やったー!」

 両の手でピースして、そのピースをぐにぐにと曲げながら僕らは笑いあった。そしてまた隣り合わせて座ってフォークを握り、元気よく同じタイミングでお皿へとフォークを伸ばした。

 僕の左手と彼女の右手は何度もぶつかる。

 「あっ逆に座ったほうがよかったね。手が」彼女はそう言った。

 うーん、このままでいいや。

 もう少し。もう少しだけこうしてたい。結局僕がその時何を考えているかなんて彼女はよくわかってなかっただろうし、僕も彼女が大切にしていることをわかってなかったのかもしれない。

その頃のことをどう思い返しても、どんな場面を切り取ってみても、彼女はいつも笑っていて、器から溢れてしまいそうな温かな冬の日の張り湯みたいな、こぼれてしまいそうな笑顔しか浮かんでこない。

 僕は絶対とかずっとみたいな言葉をよく使った。そんなものありえないってことくらいもちろん僕も知っていたし、だからこそこんなあいまいな関係には相応しいと思った。バランスをとっていた。あるいは、せめて強い言葉で自分を慰めたかっただけなのかもしれない。僕は普段から使う言葉で彼女と接することができなかった。

 僕らはいつでも隣り合わせだった。しっかりと手を繋ぎ、僕は自分の手に汗を感じ、そして彼女の手にもそれを感じた。僕たちは同じ景色を見ていた。しっかりと、離さないように握った彼女の手から感じる温度を頼りに僕は歩き続けていた。

 僕は彼女の手を握ることに夢中だったから、一緒に見ていたはずの同じ景色に、僕たち自身は映らなかった。僕は鏡に映った自分と彼女を、自分自身と彼女自身であると思い込んでいたのかもしれない。鏡の中の僕は少しいびつな冷静さで彼女を守ろうとしていたし、鏡の中の彼女は照れながらそれを受け入れていたように思っていた。

 腕の中に彼女を抱きしめたときでさえ、僕は彼女を見ていなかった。僕の胸の中でこぼした彼女の涙に気づかないまま、つないだ手のひらと手のひらをとても幸せに、抱いた小さな両の肩をひどく愛おしく感じた。とても悲しいことだけど、身体を重ねることはきっと彼女の意識にとっては何よりも冷たくて、彼女の意識の外にある身体にとっては熱すぎる他人の自分勝手な欲望そのものだったのかもしれない。

 あの夜も、僕が強く抱きしめていた夜でさえも、彼女は独りぼっちだった。そして、彼女はそのことに疲れきってしまっていた。いろいろなことに、酷く。たくさんのことに、深く。一番そばにいたはずの僕は彼女のことを守れなかった。それどころか気付こうとすらしなかった。僕はただただ彼女のことを欲していた。欲しがるばかりだった。

「もう、会えません」

  送っていった吉祥寺の駅で、僕が聞いたその声はいつもと同じ少し鼻にかかった幼い声だった。彼女はいつもと同じちいさなえくぼを見せていたけれど、きっとそれは精一杯の笑顔で、大きな瞳には涙をいっぱいに溜めていた。そこには初めて僕が、自分のことばかりを考えている僕が映っていた。

「あなたがどうしたいのかわからないです」

  春の花は強く咲きこぼれ、雨を待たずして散ってしまっていた。その花の淡い花芯は静かにひっそりと流れていき、目の前から消えてなくなってしまった。最後に見た笑顔が、悲しいはずの散り際の花が、一番綺麗だった。そんなこと言わないで、ほら、ずっと、さ。

 「こんな関係なら、ずっとなんか続かないです」

 彼女は、本当に真正面から僕の言葉を受け止めてくれていて、だけど僕が彼女にかけた言葉たちはそうやって受け止めるには重すぎて、ぼろぼろになった手と心で、それでも最後まで彼女は待ってくれていた。どうして、どうして、ならずっと笑顔でいたのさ。あんな言葉を真に受けるほうがおかしいよ。本当にずっとってあると思ってるの?僕はもう、彼女を傷つけることでしか、自分を確かめ、慰めることができなくなっていた。

 「私はずっとってちゃんとあると思ってるよ」

 それでも彼女は、これだけ傷つけられてもなお純粋なままで。優しくて。強くて。だから、もうきっと会えないけど、きっと幸せになっていくことだけは確かで、そんな幼くて可愛い彼女が綺麗になってしまうのがあまりに切ないから、だから。彼女のいうとおり、お別れにしよう。それっきりにしよう。

 「最後にキスだけしてくれませんか」

 笑いながらそう言った彼女の手をやっぱり僕は離すことができなかったけれど、それでも初めて僕は彼女のことを正面から見れた気がした。もう何もかも遅いけれど、初めて正面から見る彼女の顔は思い出の中の、僕だけの想像の中にいた横顔じゃなくて、それでも想像していたよりずっとずっと美しかった。

 「実はこれ、ファーストキスですから」

 唇を離した後に彼女が小さな声で言ったその言葉の本当の意味を僕が確かめるすべはもうない。僕たちの手は確かに離れ離れになって、彼女はもう僕がどれだけ手を伸ばしても届かないところへと行ってしまった。

 綺麗になっていく彼女のことを、幸せになっていく彼女のことを、二度と聞くことのできないあの笑い声を、大きな瞳を、くっきり浮かぶちいさなえくぼを、いつも綻んでいた可憐な唇を、まっしろで今にも折れてしまいそうな肩を、彼女を、本当の気持ちを、僕は知ることなんて一度もなかった。僕は何も見ていなかった。

 難しいことなんて何一つなかったのだ。信じてあげればよかった。ただ、正面から抱きしめて、そして一緒に歩いていけばよかった。幸せにしてあげたかった。できれば僕の手でそうなってほしかった。

 雨の降る夜、吉祥寺の商店街にはあの時と同じようにぽつりぽつりと明かりが点きだして、隣の八百屋に張り合うように野菜ばかりが並ぶスーパーの前を、ペットボトルばかりがうんざりするほど並ぶもう一つのスーパーの前を、ひどくピザを薄く焼くレストランの前を、水みたいなカレーを出す洋食屋の前を、ビールやワインを買った酒屋の前を、友達と同じ名前の靴屋の前を、強く走った。息が詰まるほど、声にならないほど、涙を流しながら僕は走った。他にはそうするしかなかった。 

 吉祥寺の町の隅々が、いちいちが、僕に何かを思い出させて、僕はその都度女々しく胸を痛めた。それでも、もう、僕にはそうするしか思い付けなかった。彼女と初めて出会った僕の部屋、彼女が割れたスマホを見せてきて笑いかけてくれたあの部屋、いつも隣り合わせで座った僕たちの定位置へ、今すぐにでも戻らなければならないような気がした。それ以外にはもう、辻褄を合わせる方法がなかった。