桃色の憂鬱

文を書く練習

賢者タイムの哲学

香を嗅ぎ得るのは香を焚き出した瞬間に限る如く、酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那に有る如く、恋の衝動にもこういう際どい一点が時間の上に存在しているとしか思われないのです。(夏目漱石

 

賢者タイムにおいても上の名言のような、知性の一点が存在しているわけで、そんな点が紡いだ性的な話をコラムにしてまとめてみました。(シンプルにさっきシコっただけ)

 

目次

 

NTRパラドックス

みんなわかってると思いますけど、NTRとは寝取られのことを指します。では、寝取られとは「寝取る側」と「寝取られる側」が存在して初めて成立します。で、AVに関していえばどちらの目線に立っているか、によってジャンルの区分が生じています。(寝取る側視点であれば、浮気/不倫というジャンルに属し、寝取られる側視点であればNTR作品ということになります。)

 

いずれにせよ、NTRとは以下の構図で示すことができます。

f:id:hommes:20191221013458p:plain

 

NTRの大きな特徴として、寝取られる側の気持ちが一方通行になりがちであるということが挙げられます。元々双方向的な付き合いをしていた仲から対象者への気持ちが薄れていき、最終的に一方向性を示すものが王道です。つまり、NTRはキャラクターのリレーションの構造によってジャンルが定義されると言えます。

 

以上のような三角形のリレーショナル構造がNTRと定義される他に、しばしば我々の間でNTRの対極にある概念として「純愛」が用いられます。ここではモデルを簡略化させるため、オスとメス*1の間に相互の関係性があれば純愛と見なすこととします。

 

つまり、文学的な純愛のみを対象としているのではなく、快楽墜ちや相互依存といった受け側の恋愛感情の有無を問わず、依存や堕落であっても「拒絶から受容」へと関係性が変化したものを便宜上「純愛」と定義して、話を進めていきます。

 

この場合、オスのリクエストに対するメスのレスポンスが失われている状態をNTRと呼び、オスメス双方のリクエストがレスポンスを兼ねて、相互作用している状態を純愛と呼べることがわかります。以下の図です。

f:id:hommes:20191221015142p:plain

 

※厳密な定義としては先ほどのNTRの図が正しいです。上記の部分のみであると、「ただの片思いの関係」も内包してしまいます。しかし、純愛と比較するために簡略化しました。

 

上記の図が示すように、定義される純愛はNTRの対義語として用いられている感覚を容易に理解できたと思います。しかし、この論理構造に着目し改めて、NTRの図を見ていただくと頭の良い皆さんはあることがわかると思います。

f:id:hommes:20191221013458p:plain

 

先ほども登場したこちらの図ですが、NTRのリレーション構造をさらに細分化すると対象者と寝取る側の間に「純愛」の構造が存在していることがわかります。

f:id:hommes:20191221020522p:plain

以上のようにNTRは「純愛」と「観測」によって構成されていることがわかります。つまり、NTRと純愛は対義語(NTR=¯ 純愛)ではなく、NTRは純愛を含む(純愛∈NTR)といえることがわかります。

 

NTRの作品によっては、観測者であるはずの寝取られる側が最後まで気づかないものもあります。その場合の観測者は視聴者(読者)です。したがって、NTRとは本質的に純愛であり、それを類別するのは観測者がいるかいないかの一点に尽きるということがわかります。

 

それは観測者効果のようなもので、現実とは完全に隔離された空間でオスとメスが盛っているとしたとき、その状態は純愛ですが、それを見ようとした瞬間にNTRになる可能性を内包しているといえます。つまり、すべての純愛はNTRと重ね合わせの状態にあります。

 

私がこれに気づいたのはNTR作品を漁っているときでした。詳細については伏せますが、僕がある作品を見つけたとき以下のような失望を抱きました。

 

「これ寝取られって自称してるけど、ただの片思いが失恋しただけやん」



そしてこの後他の作品で抜いた後の賢者タイムで気づきました。「NTRとは観測者の中に存在している幻想である」と。

 

つまるところ、僕がその作品に抱いた失望の本質は以下です。「その作中の主人公(観測者)は、そのオスとメスの交配をNTRだと解釈した」「読者である私(観測者)は、そのオスとメスの交配を純愛だと解釈した」この認識のズレが感情移入を阻害していました。

 

勃起は論理に働く(いわゆる「筋満ち勃った」ってヤツ)ので、このような認識の齟齬によって簡単に萎えてしまいます。男性諸君は分かるはずです。つーか分かれ。

 

結論としては、NTRは観測者の幻想であり、観測者がメスに抱く感情によって純愛にもNTRにも成りうるということです。つまり、NTRが示すものはメスに抱く観測者の特別な感情の発露であり、観測していたものは雌雄の交配ではなく、自分自身の心なのかもしれないということです。

 

チンポピュリズム

性的嗜好ほど、人間の個体差がピーキーに反映されたものもないでしょう。(ここピーキーという表現も微妙で、要は個体差が尖っているということが言いたい。エアライドのマシンの性能みたいな。こういうのを示す語彙ってないの?あったら教えてほしい)

 

そして個人には固有の「理想的な展開、構図、背景などの要素」を持っており、これらを満たすポルノを探しています。この理想的な何かをここではイデアルフォルムを呼ぶことにします。イデアルフォルム(以下、イデアと呼びます)と完全に合致するポルノを見つけるのは困難で「性癖ドンピシャ」と表現してもその本質は近似なだけです。

 

大抵は近似値の中にイデアの虚像を見出しているだけで「これが自分の理想」と思い込むための媒介としてポルノが用いられるだけです。なぜ理想のポルノが存在しないのか。それはイデアの実像を自分自身ですら捉えきれないことにあります。

 

もし、イデアを正確に知覚することができるのであれば、他者の生み出すコンテンツに依存する必要はなく、自分で生み出せばよいのです。しかしそれが叶わないのは、人間はイデアを知覚することができず、存在する対象物と比較してその距離を測ることしかできないからです。

 

例えば、ある人は貧乳を見て「自分はもう少し大きいほうがいい」と思うことでイデアの断片を捉えます。そして「イデアのおっぱいはもう少し大きいのではないか」という幻想が爆乳絵同人誌を生み出すのです。

 

そして、そのイデアの実像を見出す媒介としてコンテンツは創作され、消費されています。つまり人気のポルノのというのは「多くの人間のイデアと近似である媒介」ということができます。

 

しかし多くの人間のイデアと近似であるためには、そのコンテンツ自体の想像的余地を残さなければならない。つまりそのコンテンツを構成する多くの情報について、ある種の抽象性がなくてはならないわけです。

 

誰かの性的嗜好に完全に合致するものを作ったとすれば、それは対極に性癖を持つ誰かの媒介にはなりえません。つまり、人気のポルノであるため、商業としてのポルノを成立させるためには、より多くの人間の媒介になる余地を残す必要があるので、全体的に抽象性を孕みます。その結果、性のポピュリズムが起きるわけです。

 

全員の媒介になるだけの抽象性を残しているということは、全員が固有に持つそれぞれの尖った性的指向の部分に合致しないことを示します。よってポルノは人気であれば、あるほど、また、人気であることを追求すればするほど特定の誰かが抜けるという一貫性を失います。

 

皆が固有の尖ったイデア保有しているが故に、全員のイデアを満たそうとすれば、そのポルノの方向性はたちまち失ってしまいます。なんとも皮肉な話です。

 

僕らは情報で抜いている

先程、NTRの項目で、ポルノのカテゴライズは一見視覚的な分類に見えて、その本質は観測者の感情次第ということを述べました。しかしこれは色情の全体像ではありません。上記の例は認知の後に来る解釈によってポルノをカテゴライズしています。となれば当然逆の、認知の前に来る先入観がポルノをカテゴライズするケースも存在します。

 

例えば、男女が仲良さそうにベッドの上で情事にふけっているとします。この動画が某rn hubに投稿されていたとして、どのようなタグが登録されていると想像できますか?無難なところで行けば「カップル」「ハメ撮り」などが想像できるでしょう。

 

しかしそれは多角的な世界の一面に過ぎません。

 

僕が見た動画のケースでは、この動画には「NTR」とタグ付けされていました。とはいえ、NTRの三角形で示すような「寝取られる側」が存在するわけではないから、客観的には寝取られであることを証明できません。

 

その逆もまたしかりで、その男女がカップルであることも証明できず、撮影された部屋もベッドも誰のものであるかが動画という制限された情報量下では確定することができません。つまり。その男女の性行為が浮気であることを示すのは、動画のタイトルとつけられたタグのみです。

 

まぁ、僕はその動画で抜いたのですが、実際にはただの男女が仲良くセックスしてるだけです。もしタイトルに、「〜のカップルが〜」などの純愛属性を含んでいれば、私は抜かなかったでしょう。上記の例が示すように、動画の内容よりもタイトルが示すシチュエーションのセットアップのほうが、ポルノにおいて大きな意味を持ちます。

 

人は、前を向けば見える四足歩行のケツに発情していた時代から、ただ裸を見るだけには飽き足らず、その意味を解釈しなければ興奮できないほどに知能が発達しました。

 

コンテンツを作る側は、消費者のイデアルフォルムに向けて情報をセットアップします。それゆえ最近のアダルトコンテンツのタイトルは長いのでしょう。他にも大人にランドセルを着せ、幻想を作ろうとしたりします。そして消費する側も、媒介を自身のイデアに近づけるように解釈をセットアップします。ポルノに意味をもたせるのは、見せる側と見る側の幻想なのです。

 

だからこそ、視覚的なポルノを規制せんとする団体や、規制に精を出す権力を滑稽に思います。彼らの論点は常に「何を見せないか」に始終していますが、本質は形而下には存在しておらず、その物体に抱く幻想にあります。しかし、誰も気づいていません。そしてその結果、対象に規制という幻想を与えています。それが、ポルノを生み出す行為と知らずに。

 

つまり、勃起とは幻想と解釈なのです。

 

*1:性別に意味はなく、受け責めの表記として「オス」「メス」と当てていることを理解していただきたいです。(せめてものLGBTに対する配慮)