稚拙

けっこう真面目です

多分この世で不可逆的なものだけが絶対的に正しい。例えばそれは時間。

過去は美しい。

振り返りたくない過去も掘り下げてみると、なんだこんなものかと思える瞬間があります。

例えば、高校一年のときの昼休みに教室でたった一人で弁当を食べた記憶も、大学一年のときの恋人が知り合いと寝た記憶も、ある種トラウマとして刻み込まれていて封印し続けていたような過去も案外なんとも思わなくなっていたりして僕自身としても驚いた経験があります。

それどころか、美しい記憶として残っていることも往々にしてあります。あの頃のこういう孤独が、こういう理解されなかった感情たちが今の自分を作り上げているんだと思うと悪いように思えないとか、抑圧されていたことへの抵抗に対する懐かしみとかそういった感じでしょうか。

ひとつ、僕の話をします。大学一年の頃に僕の知り合いと寝た恋人については別れ方は確かに最悪でした(そしてこれ以上最悪な別れ方はないと思われる、というかそう願いたい)けど、かと言ってその全てが最悪だったかと言われると(僕の中では)そんなことはなくて、デートした記憶とか電話したこととか会えない時間に考えていたこととか、とにかく色々。分かんないですけど思い出の数々を思い返してみると美しい記憶の方が多く蘇ってきたりするんですね。トラウマ級のというか十分トラウマな出来事があってもこうだから本当に不思議です。

まぁ時間が解決したとか、僕が割と忘れっぽいとか個人差のある話かもしれませんけど。

なぜ、過去は美しいんでしょうか。

それは時間が不可逆で絶対的に正しいものだから、ではないでしょうか。

過去は不変です。対照的に現在は不安定だし未来は不確実です。つまり過去だけがいつも正しかったものとして僕のそばに存在し続けます。

「人生は選択の連続だ」と誰かが言っていました、誰かは忘れましたけど。

確かに僕たちは毎日毎時毎分毎秒選択を迫られていますね。「将来なりたいものはなんですか」といったものから「今晩何を食べますか」といったものまで、僕たちの生活は全てが選択によって成り立っています。

とすれば、過去は選択の集合体ということになります。僕たちがその瞬間に最善と思い、取ってきた選択が過去を作っていきます。その選択が本当に最善のものだったか、或いは後悔の元凶となっているものであるか、という類のぼく達が抱く主観に関わらず全ては「確固なもの」として過去になります。

でも対照的に、現在のことや未来のことに想いを馳せるとき、その対象は基本的に全てが不確実で不明瞭です。だから、僕たちはたまらなく不安になります。明日死ぬかもしれない、とか。そんなことはないにしても、就活のときに就職氷河期かもしれない、とか。彼氏がずっと私を好きでいてくれないかもしれないとか。色々ありますよね。

確実に現在は、そして未来は不安なものです。

では、過去はどうでしょう。過去は変わりません、なにがあっても絶対に変わりません。楽しかった日々は思い返しても楽しいままだし、後悔はいつまで経っても取り返しがつかないままです。それは確かに悲しいことかもしれないし、切ないことかもしれない。

僕だってやり直したい過去とか後悔してることとかもちろんあります、そういうことを思い出したとき、戻りたいなぁとかやり直したいなぁとか思ってしまうものです。

でも、その「もしも」とか「あのとき」とかそういうのが実際に戻れちゃって選び直せるとしたらどうでしょう。

そもそも面白くないとかあるかもしれませんけど、僕が純粋に第一に思うことは、不安で仕方なくなるだろうな、ということです。

現在の自分は過去の行動の積み重ねで、過去の行動は「既に起こった」という事実が覆しようのない証拠として担保されています。

だから、僕たちは自分のことを分析するとき、過去の経験とか、そのときの感情とかに立ち返って物事を考えるし、その思考パターンを疑いようのない手法として、自分を見つめ直します。

しかし、仮に時間が可逆的なものであるとしたらどうでしょう?過去が「既に起こったこと」であるという前提がまず崩壊してしまいますね。そしたら僕たちは何を確かものとして、自分を定義したらいいのでしょうか?

「あのとき起きたことで、多分僕はこう感じた。でも、一回改変したかもしれない。改変した良くなった、或いは悪くなった結果と、僕が1回目に感じたであろう感情との断絶を埋められそうにない」みたいな事態が起こるかもしれません。僕は過去に戻ったことがないので分からないですけど、想像しただけで不安になってきます。

行動と、行動に付随した経験、経験を踏まえて体得した感情、感情によって形成された価値観。その全ては時間の不可逆性のおかげで成り立っていると思っています。どんな過去もそれは正しいのです(善悪的な意味ではなく)。

確かに、すごく後悔していることとかやり直したいことは数え切れないくらいありますし、過去に戻りたいとかタイムリープしたいとかすごく頻繁に思いますけど、確実にその類の感情が自分の視野とか価値観とかを形成してるし、糧になっているはずなので、やっぱり戻れないなぁと思ってしまいます。

なんか自分でも落としどころがよく分からなくなってきたので、この辺で終わりにしたいと思います。最後に僕からひとつだけ。他にも色々不可逆的なものって何かなとか考えたのですが、僕は「時間」以外思い浮かばなかったので、他にもこういうのあるよ!みたいなのを教えていただけたら幸いです。では。

久々の更新が面白くない記事でごめん!ね!!ッ!!!

日本も非常事態宣言が必要じゃないですか?という提案。 : ひろゆき@オープンSNS

これを見て思ったこと。

共謀罪適応でテロの数を減らすことが可能だから網を広げたほうがいい」なんて言うけど

 

まず第一に、通信傍受、現行射殺、令状なしの捜査(非常事態宣言)ができない日本の現状で減らせるテロの数なんて雀の目の涙ほどしかないし、その雀の目の涙のためにむやみやたらに警察の捜査権限を増長させるのはいかがなものか、と思うわけですよ。

 

この少しでも減らせるんだからどんどんやったほうがいい派の人ってなんていうか近視眼的、メリットとデメリットのトレードオフの感覚がないのか

例えば「インターネットの犯罪を減らすために、インターネットで実名の明記を義務付けましょう」といったような「実名を明記すること」によって生じる弊害を全く考えずに推進しているような、それに近い思慮の浅さを感じるんですよね。

 

そういう人は、一般人が犯罪犯したら一発逮捕なのに身内の公務員が犯罪犯しても逮捕されない(暴行とか性犯罪)みたいな裁量がまかり通ってるこの国の司法についてどう思ってるんでしょうか?

 

最近で言うと、教師が酔って生徒の家に行って生徒を殴るってこれ、普通に考えたら「住居侵入」で「暴行」の罪に値するのに、加害の教師は本来ならば即逮捕のはずが自宅待機で済んでいるし。他にもいろいろありますよね。

本来ならば、即逮捕される案件も警察官をはじめとして、

公務員の犯罪は基本的に懲戒免職で終わるように

 

人によっては有罪になるのに、人によっては起訴すらされないという、主観による法律適応の誤差がある(その大きな裁量権が警察や検察に与えられている)日本において、

「少しでも抑止になるから」という理由だけで警察権力が増強するほど日本の国家権力を信用しているんでしょうか?

 

現にホリエモンは90億円の粉飾決算で逮捕されたけど、1500億円粉飾した東芝だったり1100億円粉飾したオリンパスだったりっていう大大大企業の経営陣は全くのノータッチだし、粉飾決算自体も執行猶予か、課徴金命令がスタンダードなのに、ホリエモンに関していえば、いきなり懲役2年6ヶ月ですからね。

 

国民に嫌われていたら、権力者が気に入らなかったら、裁判官や警察検察の裁量で判例を限界突破させることができてしまう「法の下の平等」で警察権限を強化すれば、

上級国民(権力者や金持ち)が一般人を制圧する手段だけが増えていく結果にしかならないと僕は思うんですよね。

 

結果的に権力を持つ者の権力をさらに強化しているにすぎなくて、「一般に通信傍受してない」とか言ったって本当のところ、普通の国民がわかりっこないし、権限が強まった場合していたところで、止める手段がないからね。そういうルールだから、ルールメーカーが一番強いから。で片付けられる。

 

結局マニフェスト守ってる政治家があのトランプしかいないっていう皮肉な世界になってるわけだし、政治家は基本的に国民に嘘ついてもどうせうやむやにできるからいいやって思ってるだろうし、

それでも権力を強くした結果、「テロを限りなく抑えられる」っていうトレードオフが存在するならまだしも一考に値する価値があったかもしれないけど、

ネット上で膨大に溢れる犯罪予告の立証すらできない今の警察の権力を強めたところで本物のテロ(プロの犯行)だけだすり抜けて、一般人の軽犯罪で点数稼ぎをするいつもの警察の姿が容易に想像できるし、

 

それでも共謀罪を可決に持って行ったのは、「テロに対する抑止力」なんかじゃなくて「ただ単にほんと単純に理由はないけどなんとなく警察の(国家の)権力を増強したい」っていうのが目的になっているように感じるのは僕だけでしょうか?

 

現に国会では「テロを防ぐんだ」という大義を抱えていても、「じゃあどうやって準備と判断するか」という方法論を議論する上で「格好を見たらわかる」みたいな低レベルな話し合いしか進んでいないし、それでいて「通信傍受はしない」とか言ってるんですよ。たまげたな。

 

そうすると

・通信傍受することをすでに決めてるから(ゴールに定めてるから)、方法論について論じる必要がない

・テロを防ぐことよりも「共謀罪を成立させること」事態に意味があるから、方法論について論じる必要がない

の二択だと思うんですけど、どちらにせよ国民にメリットなくないですか?これ

 

www.rt.com

これは、オンラインの軍事ゲームのチャット機能に対する記事なんですが、チャット上の「◯◯を攻撃する」「爆破する」っていうワードが「協力プレイでゲームをクリアするため」の会話なのか「現実で協力プレイするため」の会話なのかを通信傍受してる状況下でもこのような繊細な捜査が求められている現状で、

日本の警察の捜査能力(インターネットを用いた事件に対する操作力)で具体的にこれを見極められる人いるんですか?

「テロリストは見た目でわかる」って言って「通信傍受はしません」つってナメた態度でどうやってテロを防ぐんですかと僕は言いたいんですよ。

というよりテロ防ぐ気ないでしょ。

結局、最近の日本ではヨーロッパのようなテロがまだ起きていないから、とりあえず海外の真似しておこう~みたいな形式的な法整備のような気がしてならないですね。

 

そして「共謀罪反対する人の意味が分からん。そんなにやばいことしてるの?」という

職質警官の「後ろめたいことがないならカバンの中見せられますよね」みたいな論調の人がいますけど

「真っ当に生きてたら」っていうけど、

YouTubeで違法アップされたテレビ番組を見たり、ちょっと前のフリーブックスの件もそうですが、厳密には違法ではないものの、かなりグレーなゾーンなのに

アップロードされる過程が違法だと全く知らずに見てる人が多くいるわけで

そんな人達が自分の一挙手一投足をすべて六法全書と照らし合わせて無罪だって自信持てる人なんかいるんですか?

 そういうところを警察の裁量権で犯しうる危険性を認識している人があまりいないように感じるのは、僕だけがただ無知だから騒いでいるというだけなんですかね?

 

通信を傍受するしないに関わらず(僕は絶対にすると思うけど)

財力や権力を持っている人が、気に入らない人を捕まえるための正当な手段を作っているだけにすぎないと感じているんですよね。

 

無実の人を共謀罪で捕まえたけど冤罪でした

これだと国民に叩かれる

じゃあ通信傍受して得た余罪引っ付けて

犯罪者であることに変わりないでしょと正当化しちゃえばいいじゃん!

 

みたいなことが平気で起こりうると思うんですよね。

重大犯罪(強盗、殺人、テロ等)にしか証拠能力を持たないと後づけしたとしても、

通信傍受した後には、それだけでは逮捕に振り切れなくても、礼状とって強引に捜査してきたりしつこく任意聴取迫ってきたりと言ったような、要は「転び公妨」のより正当性を増した上位互換が生まれるような気しかしないんですよ僕は。

 

で、それが「裁量権」によって「適応されない人もいる」という社会構造になるわけで

結局それが「適応される」いわば下級国民の力がどんどん失っていくだけの気がしてならない。底辺層がせっせと法律を守ろうとする風潮と権力構造だけが強固になっていく傍ら、上級国民がはなくそほじりながら法律のボーダーラインを反復横跳びしている未来しか見えないんですけどどうですか?

それを作るために、政治家が共謀罪反対する人の意味が分からん。そんなにやばいことしてるの?」とか「通信傍受しないのに反対するのは後ろめたいからだ!」なんて国民を煽ってるようにしか見えないんですけどどうですか?

結論として、何が言いたいかというと

 

「通信傍受をして」「テロ対策を講じる」ことそのものには賛成なのですが

 

「通信傍受をして」「テロ対策を講じる」

捜査能力が警察にあるのか?」ということと

「人によって」「有罪にも無罪にもなる」「今の権力構造に」

通信傍受の権限を与えていいの?」ということ

 

そして「権力の乱用に利用されないですか?

というより現時点でそれが起きているので

「権力の乱用を「より正当化された手段として」使われないですか?」

ということが言いたい。

 

「ちゃんとテロを防げて」「法の下の平等で人が公平に裁かれる」環境下でなら警察権限を強化していいんですが、

「ちゃんとテロを防げて」

法の下の平等で人が公平に裁かれる」

という前提が今現在この国では保証されてなくないですか?

ということが言いたい。

 

ので、皆さんはそこを無視できるほど警察及び国家を信用しているのか、もしくは僕が無知なだけなのかということをコメントでかいていただけるとありがたいです。

僕が無知であるならばその根拠も欲しいです。

 

結局、格差社会っていうのは経済的、金があるかないかという格差よりもこういう既得権益的な権力構造下でいかに登ってくる奴隷を叩き落とすかという昨今の動きの産物の気がしてならない。。。

 

あばばばばば

えーそうですね。最近ロクなご飯にありつけずにいる、というかなんなら起きる時間が大体昼の3時とか4時とか。よくよく考えたら寝る時間が朝の5時とかね。(主にshadowverseのせい)決してニートではないです。で、朝起きたらご飯食べるじゃないですか。まあ朝って言っても起きるの夕方なんですけどね。あ、決してニートではないです。

その数少ない食事にもよく趣向を凝らしてラー油とかマヨネーズ入れてアレンジするんですよ、卵かけご飯に。たかが卵かけご飯に全力注いでアレンジする。たったこれだけで世界が変わる。嘘つきました。あんま変わんないです。

でも、例えば卵かけご飯にわさびと醤油。なんていうかこれ新しいです。しかも美味い。卵かけご飯にバター。これも美味い、マヨネーズもちょこっと乗せると尚、美味い。あと、やっぱりうどんに卵入れたり、卵って重要。ラーメンの煮玉子は丸々一個が基本これ大事、半熟煮玉子もうまいよ煮玉子。カレー、スパゲティ、グラタン、洋食には卵は欠かせない。温泉玉子もいいけど、生卵もうまい。消費期限切れてても卵は素晴らしい。良い子は絶対に真似をしないように。

はい、ここまで完全に卵の話なんですけど、そろそろバレンタインですね、またアレですね好きな人の好きな人が分かるみたいなイベントです。鬱ですね。

友情とか無関係に、貰った人間は貰えなかった人間の一生の敵となることでしょう。

そうですね、まぁ男子からすれば一大イベントですからね、平然としてる人なんてホモゲイくらいですよね。貰えなかったらどうしよう不安…。そんな君、今からでも遅くない。女子に土下座するか、バレンタインフェアで自分のを買ってこっそりカバンに忍ばせておこう。まぁ後者に至ってはバレたら命がないと思え。

で、はい、ハロウィン、クリスマスに続いてバレンタインと。日本の悪しき風習ですね。リア充格差社会の具現と言いましょうか。貰えない奴は貰えない、貰える奴は貰える。貰えないから自分は駄目な人間だ社会から拒絶された負け犬なんだという思考に陥る。悪循環ですね。だが、私はここでひとつ言いたい。お前らはそんなんだからチョコが貰えないんだ。

まずね、貰えるための努力をする。当たり前のことです。努力をせずに喚いていてもママのお腹から出てきたばかりの赤ちゃんと同じです。

努力と一口にいってもいろいろありますが、普段から服装や髪型に気を使うのは当然のこととして、周りの人が何を求めてるとか、そういったことへの気付きや配慮を持てる人間になること。人間関係はギブアンドテイクの繰り返しなので、誰かにメリットを与えられるような人間になること。人にとってのメリット、これ結構大事です。

人間関係損得勘定じゃないと言うものですが、何かとお互いがお互いのメリットになることを考えて行動すると自然とバランスが取れたりします。恋愛もしかり。つまり、何が言いたいかというと、何もしないで女子からバレンタインを貰おうなど図々しいにも程があるし、何もせずに貰えなかったことを逆恨みするのはお門違いにも程があるということ。

よし、良い事言ったからチョコくれ。

好意

好かれて困ってんだよね、なんて言い草をしてる。俺はまあ付き合うならそれでも良いかな〜って思ってんだけど多分あっちは凄く俺のこと好きだと思うんだよね、でも正直元カノ(この言い方あまり好きじゃない)の方が可愛いっていうかあいつ微妙にタイプじゃないっていうか?いやそんなこと言っちゃいけないって分かってるけど的なね?

的な。

相手からの好意6に対して自分の好意3くらいなんだけど別に、とか語る癖に蓋を開けてみると自分から告白してみたり。みんな人に語るときは「まあ私も好きっちゃ好きだけどあいつの方が私のこと好きだよ」とか言う。相手からの好意6、私の好意3、1はなんかその他のいつも浮遊してて存在してんのかしてないのか分かんないようなそんな曖昧なものですとか。

なんで、皆さん、自分が思ってる以上に誰かに思われたいとか思うんだろう。

誰かに思われたいと思っている人々は、誰かに思われたいのでなく、「誰かに思われている」と思いたい人々にしか見えなくて、想像するだけで自己愛みたいなものにつぶされそうでなんかとてもくるしい。

ギュ〜〜〜〜〜〜〜〜。

だから僕くらいは、狂気じみててもその自分の好意ってやつにボロボロになる位の勢いで向き合ってみたいなって思ったけど限界でした、僕はそういえば承認欲求の強すぎる心の弱い人間でした。

寂しかったなんていう性欲の証明。

情報伝達のインフラがここ最近本当に発達しすぎててインターネットとリアルの境界が分からなくなってきましたね。ごめんなさい少し盛りました。まだ区別はつきますね。僕が中学生だった頃。7年前とかそこらはまだインターネットはもっとインターネットっていう世界だったのに気づけばそれがリアルをどんどん侵食してってる気がするっていうそういう話です。

中学生の頃の話をします。って僕が中学生だった頃ってもう7年も前のことかよまじかよーとかなるわけですけど、これがどんどん8年前、9年前となっていくのですね。もう今年は2016年ですよ。今高校一年生の子達って何年生まれ?2000年生まれでしょ?すごいなぁ。若い。話が逸れましたね。

中学生の頃の話をします。僕がまだ可愛かった頃(客観的に見ても今よりずっとかわいい)、当然まだスマホもLINEもなくて、中学生になった5月に僕は初めて親から携帯電話を買ってもらいました。今でいうガラケーというやつです。実際のところ、小学生の頃から携帯電話を持っていましたが、それはまだドコモのキッズケータイで、別にインターネットができるわけでもないし用途も親に「今から帰る」とかそんな連絡をする程度だったので、初めて携帯を持ったのは中学の頃ってことにしてます。

中学から私立に通っていたこともあって、何かと必要だろうということでクラスのほとんどが携帯電話を持っていたと思います。

で、携帯電話で何をするかというともちろん交信ですよね。そのための電波なわけですし。そうなると別に男なんかと交信するわけなくて、好きな女の子とメールするわけですね。びびびっと。僕の場合男子校だったので、厳密に女の子と連絡を取るようになったのは中2とか中3とかそこらでしたけどそれはまあいいでしょう。

もう耳にタコができるくらい言われていることだとは思いますけど、僕らの世代にとってガラケーって情緒なんですよね。東京の下町とか田舎の田園風景とかそんな感じ。だって送信するのにもやたら時間がかかるし、だからなるべく長い文章を打っていたし、今みたいに無料通話なんてないから電話は有料で時間も回数も非常に限られていたし。現に僕自身電話代がヤバいことになって親にめちゃくちゃ怒られた記憶があります。それにほら、LINEみたいに既読だってつかないでしょ。だから一生懸命考えてドキドキしながら送った長い文章も相手が読んでくれてるかなんて分からない。これを情緒と言わず何と言うんでしょうか。

ところが、今。情報伝達のインフラが急速に発達して、ガラケーはどんどん薄くなりやがてスマートフォンに変わりました。そして、メールの代わりにはLINEが生まれました。LINEがある、ということはいつでもリアルタイムにテキストを共有できるということです。それだけじゃない。それと同じくらい容易に音声を用いて通話することだってできます。それはiPhoneでもAndroidでもnokiaでも同じことです。LINEがインストールできるかどうかは知らないけど、SkypeでもMessengerでもKakaoTalkでもなんでもいいです。多分どれかは使えるでしょう。そしてそのどれもが私達のコミュニケーションを変えたこと、リアルとインターネットとの境界を曖昧にさせたことは確かです。そして最近のスマホはインカメでもなんか知らんけど超すごいやつがついてて、顔が見たくなったらワンタッチでカメラに写して画面通話をすればよくなりました。

ちょっと危ない写真や動画も簡単に送れてしまう。ポケットの中にはいつも君がいます。

そんな中で遠距離恋愛をしていて「寂しかった」なんて冗談もいいところだと思うんですよ。7年前まだガラケーが主流だった頃はまだ許せた。長文を送り合うメールはなかなか返ってこなかったし電話だって限られていた。写真だって粗くて何を写してるのかもよく分からなかった。かわいいあの子もかわいくなくなってしまった。でも、今はiPhoneで切り取られたあの子の方がかわいいでしょ。

だったら会う意味って何ですか。答えはもうひとつでずばり性欲を満たすためなんですね。

寂しかったっていうのは性欲に負けましたっていう告白でしかないんですね。こういう言い方をすると誤解されるかもしれないけど、僕は別に性欲に負けるなって言ってるわけじゃなくて負けちゃうのは仕方ないと思うんですよ。

何も合体だけが性欲を満たす方法じゃなくて手を繋ぐとか抱き合うとかキスをするとかそういうのも言ってしまえば性欲を満たす行為なわけです。完全に性欲は満たせなくてもプチ性欲くらいは満たせる。でも、スマートフォンだけじゃほとんど性欲を満たすことができないんですよ。確かに視覚情報や音声情報は馬鹿にできないしスマホひとつで大抵の性欲は満たせるけど、スマートフォンの中の彼女で性欲を満たすのは難しいことなんですね。

情報伝達機構の発達は確かに便利ですが、プラトニックの本質がどんどん暴かれていって情緒も何もあったものじゃない剥き出しの性欲が闊歩する時代になってしまったこと、そしてもう戻れないのってなんか切ないですね。

 

桃色の憂鬱

私ブスだからとか大声で言ってみんなの気をひこうとしたり、人前で泣いて努力を認めて欲しいと乞食をしたり、中央線のダイヤみたいに定期的に情緒が乱れたり、そういうのは思春期までだよと思う。

しかし、そういう人を前に悪意の交じる感情を持つのは僕だって泣きたいからだ。
飄々とした大人になりたいのに、たまにそういう行動をとってる人を憎らしいほど羨ましくなったとき、子供の頃に「お兄ちゃんだから我慢しなさい」と買ってもらえなかったおもちゃのことを思い出します。

さよならに託す

さよなら

たった4文字。でもなんか強すぎるんですよね、強すぎるって表現が適切でなかったらエモすぎる。僕が言いたい強くてエモい言葉ってどういうことかっていうと、何かを託したくなるような或いはもう既に何かを託しているようなそんな言葉のことです。

「さよなら」の他にも「桜」とか「夏休み」とか「青春」とか「夜空」とか色々ありますけど。

こういう何かを託す系の言葉って、出しとけばなんとなく文章が整うというか情景が実感を持って浮かぶというかそんなわけで感傷に浸りたいときに頻繁に使わせてもらってるわけですが。この「さよなら」って言葉。ある文章でそれはたった一回の「さよなら」なんですけど、受け手にとってはそうじゃない。受け手は自分が経験した何万回もの「さよなら」を勝手に自分に落として解釈してくれる。いや、過去の自分の経験に依ってなくても別にいいんですね。それは小説とか漫画とか映画とかアニメとかドラマとか音楽とか色々あるけど、多種多様のこれまで摂取してきた物語の中の「さよなら」を勝手にリンクさせてくれる。

だからたった四文字の「さよなら」もなんか深みを帯びてくるわけです。エモい。

同じ四文字でも例えばこれが「おっぱい」とかだったらぶち壊しなわけですね。いや、もちろんたった一回のおっぱいも自分の過去の物語と接続可能なわけですが、どう考えても「おっぱい」よりも「さよなら」に託したいじゃないですか。なんで「おっぱい」なんかに託さなきゃいけないんでしょうか。っていう論理破綻。でも、認めませんよ僕は。絶対に。

他に理由を探してみましょう。そういえば、「夏休み」も「桜」も「青春」も「夜空」も全部なんか切ないですよね。もちろん「さよなら」も。切ないからこそ自分のこれまでの物語と接続させて言葉の強度を高めたくなるんでしょうね。完全に自己陶酔ですね。キモいですね。そうです。誰しもキモいものです。

でも「おっぱい」は切なくないですもんね。もちろん、切ないおっぱいがあってもいいし切なくないさよならがあってもいいんですけど。でも切なくないさよならってもう既に矛盾してません?切ないおっぱいはなんかそういう表現のリアリティがある感じですよね。初めて触ったおっぱいとかそういうことになるのかな。

あ、今気づきましたけど、この「初めて」っていうのも強いしエモいですね。しかも、この託し方は特別ですよね。だって「初めて」って本当に実生活の中でも一度きりの行為ですからね。「初めての○○」ってまあ言葉の定義からしてそうなんですけど、本当に人生で一回きりですからね。○○に何を挿れるかは皆さんの想像にお任せしますが。

何の話でしたっけ。おっぱいの話でしたね。おっぱいって時に悲しいですよね。時に悲しいだけで常に悲しいわけじゃないですけど。でもやっぱり、さよならはいつだって悲しいですね。「悲しくないさよなら」もそれって強がりを強調するレトリックですし、字面のまま悲しくないわけじゃないですからね。悲しくないならさよならじゃないですからね。そういう悲しくて切なくて強くてエモい言葉に人間は何かを託したくなるんでしょうね。なんかまとめっぽく言ってみたけど全然まとまってないですね。でも、人生ってそういうもんです。たいていの事象は堂々巡ってる間に終わってしまってるもんです。たぶん。さよなら。